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漁師は次の日には手をつなぐ ー 水俣に寄せて

2023.11.05

#水俣プロジェクト
漁師は次の日には手をつなぐ ー 水俣に寄せて

かつてパレスチナの平和運動家サミ・アワードさんは、こうおっしゃった。

「私たちに恐れを抱かせた過去の体験は、未来にむけた平和構築の可能性を今あらゆる面で制限しています」

サミさんのお話を伺ったのは2019年11月、福岡市内でのことだった。この講演会を企画されていた、ゆっくり小学校の上野宗則さんは、のちに緒方正人さんの『常世の舟を漕ぎて』熟成版を上梓され、私に1部を贈ってくださった。これがGSC福岡と水俣との出会いとなり、One Month for the Futureの水俣訪問が始まったきっかけになっている。

サミさんは時にユーモアを交えつつ、怖れを愛へと替えていくことが平和への道だと諄々と説かれた。

イスラエルからは嘘つき呼ばわりされ、パレスチナからは裏切り者のレッテルを貼られてきた。それでも平和のビジョンはどちらかの立場に譲歩するものではなく、またpeacemakerとなるのに特別な才能は必要ないのだ、とサミさんはお話しされた。私はその器量の大きさにただただ圧倒され、そして救われた思いがしたのを覚えている。

奇しくもそれは、福岡の誇るpeacemakerの先人、中村哲さんが凶弾に斃れる1ヶ月前のことであった。そして4年後の今、時々刻々と状況が悪化するガザ地上作戦によって、ガザ地区に住むサミさんのご家族はあてどもない避難生活を送っているという。

サミさんとの出会いによって始まった一つの関係性が、今回の訪問に結実していることを考えるにつけても、単に一部始終を説明するのにとどまらず、未来に一石を投じられるようこの文を書き始めている。未来の水俣病を防ぐのに、特別な才能は必要ないはずなのである。

GSC福岡のプロジェクトOne Month for the Futureは、「1ヶ月だけでも暮らしに対するまなざしを変えることができたら、未来は変わる」という思いで始められた。このプロジェクトのメンバーと2日間にわたって水俣を訪問するのは、今年二度目のことである。長い話し合いの末、今回の訪問のテーマは、水俣病のみならず、水俣という地域とその人々の暮らしを多面的に理解してもらえるよう、地域の協働のあり方に焦点を当てることに決まった。無論、地域における関係構築の難しさは一度や二度の訪問で理解できるものではない。とはいえ、水俣に足を運ぶこと自体が大きな意味を持っていた初回とは異なり、なぜ水俣に通い続けるのかという問いが運営メンバーの脳裡をよぎるようになったのは必然的なことであり、今回のテーマはその表れでもあった。

このプロジェクトを水俣に繋ぎとめたのは、案内役を買ってくださった水俣病センター相思社の坂本一途さんである。行き届いた提案の数々もさながら、溢れんばかりの熱情をもって水俣の表と裏をあますことなく、つぶさに、丁寧に、滔々と語る坂本さんの存在は、参加者が事実に裏付けられた水俣像を結んでいく上で、どれだけの意味を持ったことか計り知れない。前回に引き続き、今回も参加者一同は、相思社の運営する水俣病歴史考証館(以下、考証館)に宿泊することが決まった。

10月14日の昼下がり、東京や福岡、天草から集まった16名の参加者は、秋の透明な空気に身を委ねて、九州新幹線の新水俣駅構外で顔を合わせた。前回もそうだったのだが、水俣病について知りたい、という思いを募らせて都会から水俣に足を踏み入れると、水俣川の河口からゆるやかに広がる海の存在を予感させるこの土地の静けさは、古今通じて揺るがせにできない平和そのものを想わせて内心狼狽させるものがあった。

一行はここで坂本さんと落ち合い、考証館へと向かった。車窓から見えるチッソ水俣工場やエコパーク、百間排水口について解説を受けた後、考証館の展示をひととおり見学した。

考証館見学の様子
考証館見学の様子

水俣病とは、1930年代から1960年代にかけて新日本窒素肥料株式会社(のちのチッソ株式会社)が不知火(しらぬい)海に放出した廃水中のメチル水銀を原因とする中毒性疾患のことである。

チッソが手がけた化学工業は日本の高度経済成長を支えた国の基幹産業であり、熊本県と鹿児島県の県境にある水俣市にとっても、チッソ水俣工場は街の経済の大黒柱であった。このことは、水俣駅と水俣工場の正門が道路を隔てて正対していることからもそれとなく窺い知れる。

チッソは化学品の販売事業などをJNCに移管する形で分社化し、現在も患者への補償のために800億円を超える公的債務を背負い続けている。しかしチッソの城下町としての水俣は過去の物語ではない。子会社やグループ会社を通じて、チッソは今も水俣の経済に強い影響力を残している。

そういった水俣病にまつわる事実関係を正しく理解することができるのが、水俣病歴史考証館である。考証館は、水俣病が単なる疾病や環境破壊の問題に終わらず、地域の差別構造や、早期救済を怠った企業や行政の癒着、といった問題を曝け出した悲劇であることを、実物によって物語る歴史の証言箱である。実際の漁具や水銀に汚染されたヘドロ、怨の字が染め抜かれた患者運動の黒旗、患者に届けられた直筆の誹謗中傷の葉書など、多くの原物がそのまま展示されている。

考証館の見学を経た後は、地元茂道(もどう)の漁師かつ語り部の杉本肇(はじめ)さんのお話を伺った。

肇さんは生前の水俣の様子から淡々と語り始めた。杉本家は4軒あったイリコ漁の網元の一つであった。水俣はまだ電気が開通して間もなかった頃という。イワシもじつによく獲れたといい、高台からイワシの大群が湾内に入ってくるのが見えると、網元をしていた肇さんのおじいさんは法螺貝で網子に合図をし、総勢20人から30人の人足で網を引き揚げたそうだ。

かつて魚(いお)湧く海と呼ばれた不知火海がありありと想い起こされるこれらの物語は、水俣病を知る上でもっとも大事な伏線である。肇さんの昔語りはここから凄惨を極めた水俣病の時代に向かっていくわけだが、われわれ学習者は水俣病の水俣に注目するあまり、往々にして水俣から失われたものに耳を傾けることを怠ってしまう。水俣病によって人の命が奪われ、暮らしが破壊された、と一括りにすることは簡単だが、水俣の漁師たちにとっての舟、網、蛸壺、三食の刺身、酒、一つ一つのエピソードを彩る人の表情や会話、誇り、汗、さざめく笑い声、潮の香り、櫓を漕ぐ充実した筋肉、村人たちの絆、これらはすべて彼らの語る水俣から欠かせないものであろう。肇さんの口から語られる肉体的で五感豊かな世界に対し、ほぼ文字を介して構成された私の水俣はいかに画一的で二色刷りのレプリカに過ぎなかったかを、私はそのとき痛感せざるをえなかった。

杉本肇さんのお話
杉本肇さんのお話

水俣病は高濃度のメチル水銀を含んだ魚介類を食べ続けることによって発症する。したがって普通、水俣病の患者の家族はみな同じ症状に苦しんだ。肇さんの家族も例外ではなく、祖父母も父母も、人生をかけて水俣病と闘った人々であった。だが闘う相手は病気だけではない。肇さんは言う。

「テレビもない時代、村は大きな家族のようなものでした。だからこそ差別されたことが一番、母は辛かったみたいですね」

肇さんのおじいさんは第一次訴訟の原告団として闘い、裁判が始まった1ヶ月後にこの世を去った。肇さんは小学2年生であった。このとき初めて、「水俣病は人の命を奪う病気なんだ」と気がついたそうである。4人の弟たちと、次は母やばあちゃんが亡くなるのでは、と話したことを今でも覚えているという。

両親が体を壊すことの多かった杉本家では、小学生のころから、肇さんが料理や家事、漁業の手伝いをした。小学校にはチッソ社員の子息もいたため水俣病の話は一切できず、学校の先生に心の内を相談することも叶わなかったという。母が倒れて救急車で運ばれるのを目にしてからは、救急車の音が耳に入ると震えが止まらず、また仕事道具の網を何者かにズタズタにされた時は、初めて父が舟の上で泣いているのを見て動揺した、と肇さんは語っている。夜は人知れず涙を流すことも多かったそうだが、あるとき、入院している母を想ってか、弟たちは母が体中に貼っていたサロンパスを抱いて寝ているらしいと知り、苦しいのは自分ばかりではないのだと悟ったという。

私は肇さんが一つ一つ、足元を確かめるかのように言葉を紡いでいくにつれて、一年、いや一日、この一分一秒ごとに肇さんが抱えていたであろう現実に目を覆いたくなる思いであった。私が耳にしたのは、「昭和X年・・・」「19XX年のはじめに・・・」という語りではない。「小2のころ・・・」「小3になって・・・」と進んでいく肇さんの言葉には、小学2年生、小学3年生の目に映った絶望的な景色があった。決して覚めることのない悪夢を家族全員で抱え込み、終わりのない毎日を耐え抜いていく小学生時代を肇さんは明確に記憶している。私がこれまでに見た公害年表の行間や、考証館の展示のパネルとパネルの間には、どれほどの苦痛と恐怖が凝縮されていたのであろう。10歳前後の少年が「苦しいのは自分だけではないと悟った」というこの一事からしても、肇さんは私の知っている私自身の子供時代から遠く離れた修羅場を生きていた。私はそうした少年時代から抜け出てきた等身大の肇さんを前にして、「私は加害者ではないし、被害者の立場に立って話を聞きにきたのだ」という見えすいた魂胆を見破られたような気がした。

肇さんは水俣をひとたび去って、また帰ってきた人である。

補償金で村には新築の家屋が次々と建っていき、その様変わりようにうろたえ、漁のできない暮らしを強いられた悔しさから、肇さんは水俣を去って一度は沖縄へ、次いで東京に出た。

あるとき、舟で海に出ることがあった。あまりにうまく舟を操るので周囲に驚かれ、地元で漁業をしていたことを伝えると、豊かな生活だ、うらやましいなどと感嘆された。なにも事情を知らず、体に擦り込まれた技術もふるさとの風景も持たない、無責任な、知らぬが仏の感想に肇さんは辟易したという。都会からやってきた参加者からすれば耳の痛い話である。

ところがそこで肇さんは言う。自分はこの想像だにしなかった感嘆の仕方にかえって驚き、もう一度考え直してみようと思った。自分は水俣病から逃げたかっただけで、水俣から逃げたかったわけではないのかもしれないと。

肇さんの物語には、肇さん生来の屹立とした意志の強さを感じる。東京が肇さんを変えた、というのはたやすい。実際は、都会生まれの人間たちにはなにも見えていないということが肇さんにはすぐわかったのである。だからこそ肇さんには人生を通じてずっと見えてきたものの価値が直観された。都会の人間の想像もつかない財産が、水俣にはあまりにも多かったのである。

その後、参加者は温泉やバーベキューを通じて水俣を味わい、一部の有志は夜な夜な土本典昭監督の『水俣-患者さんとその世界-』を鑑賞して初日を終えた。一日を振り返って、私は水俣の難しさと奥深さにあらためて舌を巻くばかりであった。

杉本肇さんとの集合写真
杉本肇さんとの集合写真

翌る日の水俣は曇りがちであった。この日私たちは、地元学を提唱する吉本哲郎さんと考証館から山間部へ繰り出した。

地元学の何たるかを説明するのは見かけよりも難しい。結論からいえば、「ないものねだりではなく、あるもの探しをしよう」というモットーのもと、地域の良さを引き出していくのが地元学なのであるが、これは推理小説のオチだけをひき回してきたような説明でしかない。推理小説はオチだけでは全くオチない。推理小説はオチがわからないからこそオチるのである。地元学もまた同様で、参加者はオチだけで全てをわかろうとする己の傲慢さを吉本さんに思い知らされることになる。

水俣湾に相い対した中尾山の頂へ車道を上り、水俣川の河口から不知火海、水俣の市街地と対岸の天草までを一望できる地点で一行は車を降りた。思い出したかのように雨が一滴一滴、車道のアスファルトを黒く染め始める中、吉本さんが口を開く。

「私はこれからなにも説明しません」

今日も聴講者に甘んじることができると信じていた参加者は目を合わせる。きっと一番肝っ玉を冷やしたのは同行していた坂本さんであろう。

「気づいたことを言いなさい。なにが見えるのか、自分の目で見えるものはなんだ」

「海がきれいですね」

「・・・」

「あ、これはみかん畑ですよね」

「・・・」

「あの木の上のほうに成っている実はなんですか」

「知らん」

「水俣ってXXなんですか」

「知らん」

おそるおそる始まった質問は、一向に吉本さんの眼鏡にかなわない。とこうするうちに雨が止んできた。・・・

水俣は東京ではない。水俣は京都ではない。スカイツリーもなければ、清水寺もない。吉本さんがいなければ、車をこの場所に駐めたとしても、参加者の多くは市街地を1枚写真に収めてすぐさま山頂へと向かったことであろう。私はこの不可思議な問答を面白く思った。おそらくわれわれ都会人の目にはなにも見えていないのであろうことはもう明白である。あるもの探しに来た一行だが、何もあるように見えないのだからいっそう可笑しい。好んで見ずとも看板やスクリーンから情報が暴力的に目に入ってくる都会では、言ってみればそれ以外のすべてが見えなくなっていたのである。

・・・そろそろ何も見えなくなった頃に、はじめて参加者の目が開かれていく。

「対岸の島は山肌が大きくえぐれていますね」

「ほう。どうしてだと思う」

「・・・」

「埋立地だ。あの土を持ってきて、水俣を埋め立てた」

感嘆の声が背後から洩れる。

「そういえば街中に張り巡らされた送電線は山から来ていますね」

「いいねえ。どこから来てるんだ、その電気は」

参加者も試されている気がして、次第に真剣な顔つきに変わっていく。

「・・・じゃあここからは説明しましょう」

ついにそう口を開いた吉本さんだが、もとより説明のために私たちをここに集めたのではないだろう。真に説明する必要のあるものが私たちの目に見えるようになるのを、辛抱強く待っていたのである。

吉本哲郎さんのお話
吉本哲郎さんのお話

チッソの創業者、野口遵(したがう)は東京帝国大学電気工学科を卒業している。いわば技術畑の人である。

野口の立ち上げたチッソの前身、曾木電気株式会社が手掛けたのは水力発電であった。チッソが膨大な電力を消費する工場を水俣に建設したのには、チッソなりに好都合な理由があったのである。

吉本さんが私たちを山にいざなったのにも理由がある。水俣は一方を海に、三方を山に囲まれた土地である。海があり、川があり、山があるところにはそれぞれ道があり、その道はおのずと地形を物語っている。地形は輸送や交通の違いを意味し、そこに暮らす人々の生きざまを変えるはずである。きっと水俣を水俣病や海だけから捉えるのではなく、そういった風土の特徴から総体的に見つめ直してほしかったのであろう。

吉本さんは、つねに水・風・土・光を見ているという。いわく、川は個性である。土地は川の形をしている。したがって川を覚えれば土地を知ることができる。いわく、山は動く。山の植物の種子は、風や動物によって運ばれていくからである。

「道の気持ちだ」

吉本さんはそうおっしゃった。

それにつけても、私たちは質問を投げかければ、吉本さんの頭の中に答えがあるものだと思っていたのである。

吉本哲郎さんとの集合写真
吉本哲郎さんとの集合写真

吉本さんと別れたあと、私たちは昼食のためにあらためてエコパークへ立ち寄った。

エコパークは坂本さんら相思社の方々があえて「埋立地」と呼ぶ、水俣病の負の遺産である。廃水によって汚染された海底のヘドロや魚たちを埋め立てて作られたこの巨大な公園は、それと知らなければ、開発の進んだ街の一角にでもありそうな市民の憩いの場であるが、陽の光を点綴させた海の静けさと言い、人工的に整備された芝の緑の明るさと言い、加害の歴史の上に成り立つ文明をあからさまに際立たせているようで、埋め立てられた経緯を知れば知るほど、そこを訪れた者の一歩一歩の歩みに、罪の臭いのした・どろんとした重みを与えるのである。

肇さんや吉本さんの言葉を反芻しながら、私は海に面した親水海岸のコンクリートに横たわってみた。

水俣病の歴史は恐怖の歴史である。目に見えず、耳に聴こえないものは恐ろしい。病気の原因がわからないうちは感染が恐ろしい。原因がわかっても差別や中傷が恐ろしい。死が恐ろしい。水俣病が家族にいることを知られるのも恐ろしい。病気にかからなくても水俣出身だと知られるのが恐ろしい。チッソにしたって、朝鮮に築き上げたものを戦後全て失った教訓から、ふたたび何もかもを失うことを恐れていたはずであり、それが水俣病早期解決への道を絶たせた原因なのかもしれない。ここで平和への道を説いたサミさんの言葉をふたたび思い出しても良いだろう。

「私たちに恐れを抱かせた過去の体験は、未来にむけた平和構築の可能性を今あらゆる面で制限しています」

私たちは日常生活において、大小さまざまな恐怖を意識しない。同調圧力しかり、プライドしかり、国の政治しかり、それがそれであることは現代社会の不可避の足枷であり、問題はそれをどう変えるかではなく、それとどう生きていくかだと考える節がある。そのためであろうか、私たちは期せずして、遠い過去はおろか、目の前にいる人たちの人生や周囲に広がる自然の中をじっくり覗いていても、大切なものを見失いがちである。肇さんにとっての水俣が失われたのは、チッソや行政という枠の中で人々がそれを見ようとしなかったからであり、吉本さんの地元学の教えは、そのような枠にかかわらず、見るべきものが見えていない現代人=私たち=チッソに対する警鐘であった(緒方正人さんの「私はチッソであった」という言葉は、それが壮絶な経験から立ち上がった言葉であっても、私たち自身の言葉として銘記されるべきである)。安らかにこの世を旅立つ人の横顔が、それを見る人に人生のさまざまな思い出を想い起こさせるように、鏡のようにしんとしている不知火海の水面(みなも)が、それを見る人に豊穣な命の群れを期待させるように、私たちは硬質な文字によって刻まれた歴史からその時代を生きた人たちの暮らしを、同じ太陽のもとに広がる土地の表情からそこを歩いた人々の足音を、いきいきと想像することはできないのだろうか。

やわらかい陽の光に晒されているのに、なにか切実な思いに駆られて私は体を起こした。考証館に戻ってからも、参加者との振り返りの静かな時間の流れがかえって焦燥感を募らせるばかりであった。水俣への旅においては水俣の平和学を実践していかなければいけない —— 突如脳裡に浮かんだそんな使命感にしても、私はあまりに速すぎる新幹線に乗って水俣に忘れていってしまわないだろうか。

「漁師は次の日には手をつなぐ、そう母は言っていました。漁師は次の日にはいつ死ぬかわからないところへ漁に出かけていく、だから喧嘩をしてもすぐ仲直りするんだと、そう言っていました」

肇さんの言葉が蘇る。地域の協働のあり方をこれ以上端的に示す言葉は他になかった。だが現代社会に絡め込まれた私たちは、まず私たち自身と手をつなぐべきなのかもしれない。

エコパーク
エコパーク
鷲見雄馬

鷲見雄馬 Yuma Sumi

東京藝大中退。プロのバレエダンサーとしてジョージア国立バレエ団で活躍。2012年ベルリンTanzolymp銀賞。 帰国後はソフトウェアエンジニアとして、東京や福岡のスタートアップでアプリケーションの開発を主導したのち、現在は大手モビリティカンパニーにてエンジニアを育成している。 グローバルシェイパーズコミュニティの北アジア地域におけるコミュニティチャンピオンとしても活動中。元グローバルシェイパーズコミュニティ福岡ハブ。